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Posted by あしたさぬき.JP at

2018年12月08日

初冬の満濃池 護摩壇より


予報通り寒空の満濃池になりましたが、渡り鳥は冷たそうな水面に浮かんでました。  

2016年11月03日

かりん会館で「真魚の不思議な一日」朗読と音楽



2016年11月26日(土)14時開演
「真魚の不思議な一日」
朗読と音楽で幼少期の空海さんと不思議な世界へ
場所は満濃池東詰 かりん亭(おうどん屋さん)横を上がった 『かりん会館』
入場は無料ですが整理券が必要です、お求めはかりん会館まで
電話 0877-75-0200   (水曜日休館)
mannouike.com  


Posted by まんのう池コイネット at 14:39Comments(0)満濃池人物伝

2016年08月22日

2016年02月16日

空海塾入門 かりん会館(満濃池)

2016年2月15日 10:00~
満濃池かりん会館(水曜日休館日)にて「空海塾入門」と題して

瞑想や写経とミニ八十八箇所を逆打ちするなど非日常的な体験を通じて

古の故郷に心を馳せました

参加者は募集30名に対して参加30名と大盛会!!


まずはまんのう池コイネット齊部会長より開催のご挨拶

























満濃池湖畔にあります 別格四国霊場第十七番札所 神野寺 片山御住職より神野寺と空海のお話























本日は 「般若心経」を写経しました






















まんのう池コイネットボランティアガイドによりミニ八十八ヶ所逆打ちと神櫛神社見学





































聖地満濃池での非日常体験通して心の浄化も出来たことでしょう
次回開催は秋ごろを予定しています
ご参加の皆様、神野寺御住職様お疲れ様でした、ありがとうございましたm(__)m









  


2016年02月07日

満濃池に榎本武揚の碑があります
































神野寺参道入り口右側に建つ(写真右側の)碑

以下は碑に書かれている内容を転記しましたが何分年数が経っているため
誤字等はご容赦くださいm(__)m


千載無此人物
満濃池詣大師社書感 榎本武揚

碑側に建立の年月が刻まれているのだが・・・・・・

石碑右側面に古文というかなんというか、凡字の用でもあり象形文字のような字がありましたが解読はできませんでした

明治二十八年六月吉日

明治28年6月吉日建立であるから、榎本武揚が黒田内閣で農商務大臣を務めていた時に、
視察で道後、三津浜から船で多度津に着き、『中讃岐の郡長「泉川」なるものの案内で万農ヶ池(満濃池)
に達し処々を見分けし大師の社内に休息す』
と家族に宛てた手紙が残っていることから察すると、満濃池を見た後神野寺で休息を取ったということのようです

昔から満濃池には政府要人や文化人などが訪れたという証明にもなります

ウィキペディア日本語版
榎本武揚









  


2008年05月16日

満濃池人物伝  松崎渋右衛門


松崎渋右衛門(まつざきしぶえもん)は文政十年(1827)八月十五日 江戸水道橋の松平藩邸で産声をあげた。
父は伊織と云い高松藩江戸詰めの武士であった。渋右衛門は幼少時より利発で記憶力
抜群、弁舌爽やかで奇童と言われ、直言には両親も心配するほどだった。

 叔父には勤皇家の長谷川宗右衛門がおり、十六歳で家督を継いだ渋右衛門は弘道館
に学び藤田東湖の影響を受け、尊皇の思想を身に付けたという。

 直言は藩主にも及び不興をかった渋右衛門は江戸詰めから国元への配置換えとなり、
高松勤務となったが直言は治らなかった。元治元年(1864)九月松崎は勤皇とのことで、
家老職から寄合番頭に格下げ五ヶ月の閉門となった。

 慶応元年二月十三日渋右衛門は勤皇思想が強いと言うことで投獄されてしまうが、
この時期勤皇志士の日柳燕石、美馬君田らも獄中にあってここで満濃池の実情や農民
の苦労を聞かされていたものとおもわれる。

 慶応四年六月九日 朝廷の命により出獄するが都合四年間も投獄生活を強いられた
こととなる。出獄後明治二年四月に再び高松藩執政職兼会計農政長の要職に就くが早
速六月には長谷川佐太郎と現地を視察し、石穴案を強く推し寒川郡富田村の庄屋軒原
庄蔵の起用を即決する。

 明治二年九月八日高松城内(現玉藻公園の一角)にて暗殺される。彼の辞世の句は 
「君のため国のためには惜しからじあだに散りなん命なりせば」 とあり、覚悟の上の
登城であったとおもわれる。(上写真石碑の句)

 享年四十三歳であった。

石碑の場所は

  


Posted by まんのう池コイネット at 07:05Comments(0)満濃池人物伝