2008年05月30日

まんのう 満濃池ゆる抜き近くして思うこと

6月13日(正午)は満濃池のゆる抜きです
まんのう 満濃池ゆる抜き近くして思うこと

満濃池は金倉川沿いの広い谷地と、天真名井の豊かな湧き水を堰き止めて、
大宝年間(701~704)に讃岐の国守、道守朝臣が創築したと満濃池後碑文に記されています。

 其の池も弘仁九年の洪水で決壊し、築池使 路ノ真人浜継が再築に着手するも進まず、
国守の嘆願で嵯峨天皇の命を受け、弘仁十二年空海(弘法大師)が築池別当として派遣され、
再築された話は有名であります。その時空海は池東の高台岩上に、護摩壇を作り工事期間
中護摩を焚き、工事の無事完成を祈ったと伝えられ、その岩山は今も護摩壇岩として残っています。
まんのう 満濃池ゆる抜き近くして思うこと
(現在写真手前の島のように見えるのが空海が護摩を焚いたといわれる「護摩壇岩」ここ最近では嬉しいことに水位が上昇して渡れなくなっています。)

 その池も三十年後の洪水で決壊し、再築。その後三百三十余年は決壊の記録が無く元暦
元年五月一日の洪水で堤防が決壊、鎌倉・戦国と騒乱期の四百五十年間は再築されず、
池の中に人が住み、池内村が出来ていた、と言われています。

 豊臣秀吉が天下統一をなし、太平の世となり徳川家光の時、讃岐城主生駒高俊は寛永五年
、家臣 西嶋八兵衛に満濃池の再築を命じました。八兵衛は現地を踏査し、空海が再築の
際逗留した矢原家に残された、資料を参考に三年計画で再築を設計着工し、

寛永八年二月十五日に竣工しています。その後底樋の伏せ替え六回、櫓の仕替十二回を数えて、
安政元年の大地震による決壊となります。

 その後、多数の先人の尽力により明治三年に復旧した満濃池は、貯水量585万トンでした。
明治三十八年に第一次嵩上げ工事(0,87m)が行われ、貯水量667万トンとなり、昭和五年に
第二次嵩上げ工事(1,5m)が行われ、貯水量780万トンとなり、昭和三十四年竣工の第三次
嵩上げ工事(6m)で、現在の貯水量1,540万トンとなり、潅漑用溜池としては日本一となったのであります。

まんのう 満濃池ゆる抜き近くして思うこと


写真上(昭和30年ころ撮影)モノクロ写真(左下すみ)を見ると配水塔はまだ建設されてなく、導入路の敷設も手付かずの状態
である白く見える石畳が現在の堤防でそれに続く石畳は旧堤防の堤であろう
護摩壇付近は現在と殆ど変わらず当時はより多くの松林に覆われていたようである
神野神社(写真右側)付近は当時あまり樹木が茂っておらず空が透けて見える程度ある

上のモノクロ写真は工事現場写真のようであり左上新堤防ではまだ作業する人影が写っている
この写真を推測するに現在の配水塔より約5m~7m位池中心より旧堤防南末端から撮影
したもののようである

写真下カラー写真は水位約90パーセントくらいの時に配水塔から撮影したもの

こうして眺めると50年の月日が流れていることに気づくとともにこれから50年・100年この変わらぬ風景を守っていく努力を私たちがしなければ・・・と思うのでした。



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Posted by まんのう池コイネット at 15:25│Comments(0)満濃池の歴史・史跡
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