2008年02月26日
満濃池にある不思議な神社

満濃池が築堤されて1300年が経っています。周辺には色々な史跡や遺跡があるのですがその中にちょっと不思議な神社があるのです。
神櫛(かんぐし)神社といいまして お祭してあるのは神櫛王・徳川家康・ルーズベルト大統領の名前があります。神社としてはちょっと不思議でしょう どうもこれには深い理由があるそうです。
神櫛神社はその昔延暦二十三年(804年)にこの地に住み着いた酒部黒麿が、先祖の神櫛王を神として祭ったのが始まりといわれています。酒部黒麿の子孫であるこの地の豪族矢原氏は長曾我部元親と戦って敗れ慶弔年間、徳川家康のよって所領の一部を回復する事が出来たそうです。矢原家の人々はその後徳川家康の霊を神としてこの神社に合祀したそうです。
また石碑に刻まれているルーズベルト大統領は矢原家の先々代がアメリカ留学の際、大変お世話になった為のものと言われています。
石碑の南側には大きなカクレミノの木が茂り、その南側には矢原家の立派な墓地が隣接しています。
この神櫛神社は

満濃池湖畔の小高い山の上に聳え立つ御柱の近くにあります。
2008年02月25日
弘法大師 空海

空 海 (弘 法 大 師)
空海は宝亀五年(774)六月十五日讃岐国多度郡屏風ガ浦の佐伯氏の三男として誕生したと云うのが通説である。学齢に達し讃岐国学に入学、傍ら母方の叔父について儒教を学び中央役人を目指す。十五歳になって上京、大学寮にはいり郷土出身の岡田牛養について学び大足にも指導を仰いだ
立身出世主義に疑問をもった空海は大学を退学、仏教に一身を捧げる決意をする。そして僧尼令に反して山林憂婆塞としてひたすら修行に励むのである。
この時より当分史上よりきえる。次に登場するのは三十一歳、第十三次遣唐使船に留学生として同乗するのである。歴史の表舞台から消えていた七年間は充電期間だったのであろう。延暦二十三年(804)春 遣唐大使藤原葛麻呂に従って留学生として入国の許可を得て出国、万里の波濤を越えて苦難の末に大陸に渡る。
二年間という短い留学期間だったが、この間に密教を習得し、亦多くの文物を請来する。
空海は弘仁七年(816)嵯峨天皇から高野の土地を与えられ、高野山で弘仁九年の冬より翌年の夏まで過ごし、その後京の都に戻り布教活動と著書執筆を始め、唐から請来した両部曼荼羅や真言七祖の影像などを補修し、新たに影像の讃文を撰して扶養を行うなど、多忙な日々を送っていた。
そんな折太政官符(朝廷の許可)が下り沙弥(修行中の僧)一人と童子四人を従えて讃岐に下り、満濃池に近い那珂郡南部の豪族、矢原正久邸に逗留した。空海四十八歳のときであった。その時当時では非常に珍しい花梨の苗木を数本持参し、それを矢原屋敷内に植樹したと言う、その花梨の二代目がまんのう町に今も残っている。
空海が到着した時、築池工事は既に最後の段階に近づいており、川を堰き止めて侵食谷の全域を池とする締切工事のみが残っていたと考えられる。
空海再築の満濃池には構造上三つの特徴があります。
第一に堤防をアーチ型にしている。第二に岩盤を開削して余水吐を設けている。第三に堤防内側に護岸の為のしがらみを設けている。
修築工事の間、空海は現場全体か゛見渡せる岩山に護摩壇を設け護摩をたき、修法を行い、農民は喜々として土を運び、堤を踏みしめ突き固めたと言う。
こうして五月二十七日に着工した工事は七月末に竣工している。
朝廷は空海の工事完成の功を讃え新銭二万貫を恩賞としてあたえた。
2008年02月20日
四国霊場別格第17番札所 神野寺

五穀山 神野寺
宗派 真言宗 善通寺派
本尊 薬師如来坐像 他に不動明王立像・弘法大師坐像
由来 神野寺は弘仁十二年満濃池再築のため帰国された空海が、池を見下ろす神野山を聖地と選び創建された寺で、満濃池の守護道場としての使命が付与されていた。そこで繁栄時の境内は、西は神櫛神社付近より、東は堂跡ケ峰にに至る一帯の広大な地域であったと言われる。
その後矢原家の勧進を受けたことは、神野神社の灯篭の笠の銘に、神野寺の空忍和尚の記載によって明らかで、明徳四年矢原一族によって大師堂がされ、神野寺二十三世信専大和尚が奉仕した旨が、はっきりと刻まれている。天正十二年矢原家が長宗我部軍に攻撃された時、矢原一族が住職であったので、神野寺も焼き払われてしまった。
以後神野寺は再興されることなく、昔の本尊佛 正観音立像は買田村の恵光寺に祀られ、神野寺跡は荒廃のままとなった。
昭和七年大師会の発願で、上里法照を中心に空海生誕千百年祭の記念行事として、神野寺の再興が計画され昭和九年に堂宇が完成した。昭和三十年満濃池第三次嵩上げ工事で本堂は現在地に移築された。

本堂の南の丘の上に建つ弘法大師銅像は、香川県出身の小倉右一郎最大の傑作で、像高3,3mの空海青年像が3mの石の台座の上に立ち、満濃池を見下ろしている姿は真に雄大である。
銅像は青銅造りで石の台座には
奉賛 伯爵 松平頼寿
設計原型製作 小倉右一郎
石工 長尾村 山下幾次郎
とあり昭和八年五月七日建立とある。
2008年02月19日
渇水で旧余水吐けが顔を出す

満濃池の水位は依然思わしくありません。昭和30年頃に現在の堤防工事が完了するまでは写真の余水吐け(決壊するのを防ぐ為に余った水を吐く施設)が使われていました。この水量がちょうど一世代前の満濃池の姿です。

2008年02月18日
満濃池守護神神野神社(かんのじんじゃ)
満濃池東詰めに石段があります。そこを上ると神野神社です
由 緒
神野神社は伊予の御村別の子孫が讃岐に移り、この地を神野と呼び創祀したと伝えられている。また一説には、神櫛王の子孫、道麻呂が天穂日命を祀りこれを神野神社と呼んだとも言われている。その後天真名井に祀られていた水神(罔象女命)を池の神として合祀。また別雷神は矢原正久が池の東山に加茂神社として、池内を流れる金倉川の流れを鎮めるため祀っていた神を合祀。嵯峨天皇は空海の招聘を感謝した里人達が祀ったと言われている。
この神社は朝廷よりの尊信も篤く、元慶五年には従五位下の位階をも授かり、延喜式内社讃岐国二十四社の一社に数えられいます。満濃池の守護神としての神野神社は池の再建、修築の度に造営され、昭和二十八年満濃池第三次嵩上げ工事の際、現在地に移築されましたが、平成十七年老朽化が進み幣殿、拝殿は神社氏子や地元有志者、水利関係者によって立派に改築されました。
祭神 天穂日命・嵯峨天皇・別雷神・罔象女命・大山祗命
境内社 松崎神社 松崎渋右衛門命・長谷川佐太郎命・軒原庄蔵
和泉虎太郎・島田泰雄・西嶋八兵衛
奉献物 石鳥居 文明に年建立 香川県下では最古のものと言われている。
石灯篭 文化元年建立 備中国倉敷 灘屋右郎右衛門奉献
狛犬 嘉永六年建立
2008年02月16日
満濃池がその昔赤レンガの配水塔だった頃

大正三年(1914)の師走、満濃池に赤レンガ造りの配水塔が出現した。円筒形に赤レンガを積み上げ、六角錐の屋根をつけた姿は、溜池王国香川が全国に誇れるモダンな景観であった。
幕末に決壊した満濃池は明治三年に復旧されたが、このとき従来の木造の底樋は廃止し、池底の岩盤にトンネルを抜いて石穴底樋とした。しかし石穴と斜樋、取水櫓などは従来どうり木造であった。そのため僅か三十年足らずで腐食し、明治三十一年には斜樋管の取替えをおこなっている。
当時 満濃池普通水利組合の管理者であった乾貢は取水施設を視察し、前任地愛知県の入鹿池の取水塔方式を提案した。組合総代達も恒久施設の必要性を痛感し、新方式の導入の検討を開始した。
この時、組合内部で水利慣行(樋外五十石、証文水)が消滅するとのことで反対する者も多数いたが、旧来の水利慣行は存続させる旨議事録に書き残すことで説得し、配水塔建設は可決された。
工事は大正三年(1914)九月に着工、総工費一万八千九百二十一円五十五銭
同年十一月に竣工した。全高六十五フイト(19,7メートル)、円筒形底部径
二十四フイト(7,3メートル)、上部径十五フイト(4,6メートル)、
その構造外観を大正七年刊行の仲多度郡史より引用すると
自然岩を基底とし、コンクリートと花崗岩を布置してその基礎を造り、レンガを重畳し鉄板をもって屋根とす。その構造円筒形にして・・・(中略)
内部中央に直立する鉄管あり。石穴の一端に接続す。吸入鉄管総数七個あり。上下適当な位置に配置して中央の立管に接続す。しかして各吸入鉄管に止水弁を備え、上部の屋内に備えたる スタンドポスト 称する小機によりて開閉を自由ならしむ。その機能と軽快な放水調節は、じつに完備というべし。と絶賛している。
なにしろ大正初年といえば、農村工事ではまだコンクリートやモルタルレンガ積みが珍しく、ましてや配水塔に鉄管を配置しバルブ操作で配水する等、当時としては画期的な設備であった。
現在の配水塔

2008年02月12日
満濃池と讃岐の水事情

讃岐の水を語るとき、よく「水との闘い」という言葉が使われる。それは水を求めてのたゆまざる努力を意味している。一万四千六百余の溜池の築造は、先人が現代に残した尊い遺産である。亦永い水利史のなかで培われ定着した水利慣行も、水との闘いの証である。水利慣行はややもすれば悪者扱いされがちであるが、必ずしもそうではなく、水についての慣行行事のなかには、水に対する感謝と敬虔な祈りすら組み込まれている。

讃岐では古来から雨乞いの行事がしばしば行われており、古くは仁和四年(888)の旱魃に、時の讃岐の国守 菅原道真が、城山で七日七夜雨乞いしたと言う古事に始まり、法然上人による念仏踊りなど枚挙にいとまがない。
雨乞いは昭和に入ってからも様々な形で行われ、昭和九年の旱魃時には、県知事が祈雨の応急対策として、善通寺師団に山砲による実弾発砲を要請し、山砲十二門で二百余発の射撃を行った(八月二十九日)ほか、各市町村に対して「八月三十日から三日間、篝火を焚き一斉に雨乞いせよ」との通達を出したりしている。また昭和十四年の大旱魃でも市町村へ雨乞い祈願の実施と、学童に朝夕土瓶で稲株一株毎に水をかける「どびん水」を実施するよう通達したりしている。今日からみると非科学的と一笑されることではあるが、讃岐の先人たちの水に対する必死の思いと、切実な祈りの姿を見ることができる。
ところで善通寺師団の実弾発砲の効果であるが皮肉なことに阿讃山脈を隔てた徳島県池田で大雨が降り、早速池田の代表者がお神酒を提げて、善通寺師団司令部にお礼言上に来たという笑えない話がのこっている。念のため真偽の程を徳島地方気象台に電話で確認したところ昭和九年八月二十九日に四・二ミリ、翌三十日に四九・九ミリ降っていました。
2008年02月11日
満濃池守護神神野寺を学ぶ
香川県まんのう町にある日本一のため池満濃池の堤防西詰めにある神野寺は弘仁十二年満濃池再築のため帰国された空海が、池を見下ろす神野山を聖地と選び創建された寺で、満濃池の守護道場としての使命が付与されていましす。そこで繁栄時の境内は、西は神櫛神社付近より、東は堂跡ケ峰にに至る一帯の広大な地域であったと言われています。

長年廃寺となっていた神野寺は昭和七年大師会の発願で、上里法照氏を中心に空海生誕千百年祭の記念行事として、神野寺の再興が計画され昭和九年に堂宇が完成しました。昭和三十年満濃池第三次嵩上げ工事で本堂は現在地に移築されました

本堂の南の丘の上に建つ青年弘法大師銅像は、香川県出身の小倉右一郎最大の傑作で、像高3,3mの空海青年像が3mの石の台座の上に立ち、満濃池を見下ろしている姿は真に雄大です。


長年廃寺となっていた神野寺は昭和七年大師会の発願で、上里法照氏を中心に空海生誕千百年祭の記念行事として、神野寺の再興が計画され昭和九年に堂宇が完成しました。昭和三十年満濃池第三次嵩上げ工事で本堂は現在地に移築されました

本堂の南の丘の上に建つ青年弘法大師銅像は、香川県出身の小倉右一郎最大の傑作で、像高3,3mの空海青年像が3mの石の台座の上に立ち、満濃池を見下ろしている姿は真に雄大です。

2008年02月10日
満濃池の歴史と変革
満濃池は金倉川沿いの広い谷地と、天真名井の豊かな湧き水を堰き止めて、大宝年間(701~704)に讃岐の国守、道守朝臣が創築したと満濃池後碑文に記されています。
其の池も弘仁九年の洪水で決壊し、築池使 路ノ真人浜継が再築に着手するも進まず、国守の嘆願で嵯峨天皇の命を受け、弘仁十二年空海(弘法大師)が築池別当として派遣され、再築された話は有名であります。その時空海は池東の高台岩上に、護摩壇を作り工事期間中護摩を焚き、工事の無事完成を祈ったと伝えられ、その岩山は今も護摩壇岩として残っています。
その池も三十年後の洪水で決壊し、再築。その後三百三十余年は決壊の記録が無く元暦元年五月一日の洪水で堤防が決壊、鎌倉・戦国と騒乱期の四百五十年間は再築されず、池の中に人が住み、池内村が出来ていた、と言われています。
豊臣秀吉が天下統一をなし、太平の世となり徳川家光の時、讃岐城主生駒高俊は寛永五年、家臣 西嶋八兵衛に満濃池の再築を命じました。八兵衛は現地を踏査し、空海が再築の際逗留した矢原家に残された、資料を参考に三年計画で再築を設計着工し、
寛永八年二月十五日に竣工しています。その後底樋の伏せ替え六回、櫓の仕替十二回を数えて、安政元年の大地震による決壊となります。
その後、多数の先人の尽力により明治三年に復旧した満濃池は、貯水量585万トンでした。明治三十八年に第一次嵩上げ工事(0,87m)が行われ、貯水量667万トンとなり、昭和五年に第二次嵩上げ工事(1,5m)が行われ、貯水量780万トンとなり、昭和三十四年竣工の第三次嵩上げ工事(6m)で、現在の貯水量1,540万トンとなり、潅漑用溜池としては日本一となったのであります。
概要 満水面積 138ha、堤長 155m、堤高 32m、集水面積 9,900ha、
受益面積 4,600ha、
其の池も弘仁九年の洪水で決壊し、築池使 路ノ真人浜継が再築に着手するも進まず、国守の嘆願で嵯峨天皇の命を受け、弘仁十二年空海(弘法大師)が築池別当として派遣され、再築された話は有名であります。その時空海は池東の高台岩上に、護摩壇を作り工事期間中護摩を焚き、工事の無事完成を祈ったと伝えられ、その岩山は今も護摩壇岩として残っています。
その池も三十年後の洪水で決壊し、再築。その後三百三十余年は決壊の記録が無く元暦元年五月一日の洪水で堤防が決壊、鎌倉・戦国と騒乱期の四百五十年間は再築されず、池の中に人が住み、池内村が出来ていた、と言われています。
豊臣秀吉が天下統一をなし、太平の世となり徳川家光の時、讃岐城主生駒高俊は寛永五年、家臣 西嶋八兵衛に満濃池の再築を命じました。八兵衛は現地を踏査し、空海が再築の際逗留した矢原家に残された、資料を参考に三年計画で再築を設計着工し、
寛永八年二月十五日に竣工しています。その後底樋の伏せ替え六回、櫓の仕替十二回を数えて、安政元年の大地震による決壊となります。
その後、多数の先人の尽力により明治三年に復旧した満濃池は、貯水量585万トンでした。明治三十八年に第一次嵩上げ工事(0,87m)が行われ、貯水量667万トンとなり、昭和五年に第二次嵩上げ工事(1,5m)が行われ、貯水量780万トンとなり、昭和三十四年竣工の第三次嵩上げ工事(6m)で、現在の貯水量1,540万トンとなり、潅漑用溜池としては日本一となったのであります。
概要 満水面積 138ha、堤長 155m、堤高 32m、集水面積 9,900ha、
受益面積 4,600ha、
