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Posted by あしたさぬき.JP at

2008年08月03日

弘法大師土産のかりん


大師土産のかりん

弘法大師は矢原家に当時としては非常に珍しい花梨(かりん)の苗木を数本持参しそれを屋敷内に植樹したと伝えられ、その二代目といわれる花梨の木が今も矢原邸跡に生息している


関係者によって二代目花梨の保護活動が行われています


春の芽吹き

二代目花梨は
  


Posted by まんのう池コイネット at 10:22Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年07月31日

弘法大師満濃へ

弘法大師満濃池へ

弘法大師派遣の知らせを受けた矢原氏は弘法大師の下向を待った。
矢原家家記」によると弘法大師は弘仁十二年四月二十日に矢原邸に到着している。

写真手前に滞留跡の碑と解説看板 奥に見える森が矢原邸跡です

弘法大師到着の知らせを受けた矢原正久が屋敷外れの「岩の本」(写真参照)までお迎えに出たところ、大師は早速笠をとり「お世話になります。池が壊れてさぞお困りでしょう。工事を早く進めるつもりです。よろしくお願いします」と丁寧にあいさつされたという大師が矢原家正門を笠をとってから入られたということで、それ以来矢原家の門をくぐるときはどんなに身分の高い方でも、笠をとってから入ることになったという話が伝えられている。





弘法大師が満濃池修築の際に停留した矢原邸は
  


Posted by まんのう池コイネット at 12:01Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年07月28日

いよいよ弘法大師讃岐入り



弘法大師は太政官符(朝廷の許可)を受けて、沙弥(しゃみ=修行中の僧)一人と童子四人を従えて讃岐に下り、満濃池に近い那珂郡南部の豪族矢原正久(やばらまさひさ)の邸に逗留した。弘法大師四十八歳の時であった。
矢原氏は讃岐の国造(くにのみやつこ)神櫛王(かんぐしおう)の子孫で、鵜足郡と那珂郡の南部を開拓し郡司に匹敵する豪族であった。  


Posted by まんのう池コイネット at 07:45Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年07月24日

弘法大師と満濃池の修築



弘法大師(774年生誕)は満濃池に近い多度郡の豪族佐伯氏の出で、兄の佐伯尚鈴は多度郡(多度郡(たどのごおり)は、讃岐国にかつて存在した郡。葛原郷、三井郷、吉原郷、弘田郷、仲村郷、良田郷、生野郷から成る。現在の多度津町・善通寺の一部)の郡司で従五位下を授けられている地の利に明るく唐で五明学(仏教)を学び、工巧明(土木工学)にも精通していた弘法大師が再築に関して何等かの助言をしていたことは十分に想像できる。  


Posted by まんのう池コイネット at 09:38Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年07月19日

弘法大師の下向



弘法大師の下向
国司清原夏野の弘法大師による満濃池修築の要請を朝廷は「面して件の和尚(空海)今度は他の障りあるに依って遺すべからず」(弘法大師行化記)にあるように、一度は断っているが再度の申請によって弘法大師は讃岐の国に下向することとなったのである。

弘法大師行化記  


Posted by まんのう池コイネット at 10:59Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年07月10日

満濃池 今昔 路真人浜継の修築



路氏は土木工学の技術者で中央から地方へ派遣された工事の責任者であった。この時代の築池技術はかって帰化人が伝えた技術が完全に消化され、古墳の築造によゆって確立した版築や敷葉工法も普及して、各地で大規模な用水工事が行われており条里制の土地改革が本格的に進められていた。

当時、築池工事には食料や功料を与える雇役(こえき)や和与(わよ)で人夫を集めていたことが大政官符で明らかだが、讃岐の国は人口が少なく人夫の集まりも不十分で、築池工事は予定通りには進まなかった。そこで国司郡司は大和や河内の用水工事が僧行基を中心とした宗教集団によって成功した例にならい、弘法大師の力を借りて労力を確保し工事を進めることを計画し、朝廷に弘法大師の帰国を願い出たのである。  


Posted by まんのう池コイネット at 08:18Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年07月01日

平安の破堤


国司 清原夏野の池普請

大宝年間の創築から百年を経た弘仁九年(八一八年)讃岐の国は大洪水に見舞われ萬農池は決壊し、その翌年には大干ばつに襲われ続いて十一年も干ばつという打ち続く自然災害に農民の生活は困窮を極めていた。そのため当時の国司 清原夏野はその惨状を朝廷に願い出て許可され築池使として路真人浜継(みちのまろびとはまつぐ)が讃岐に下り池普請に携わった。
これが弘法大師の池再築へとつながる  


Posted by まんのう池コイネット at 14:00Comments(2)満濃池の歴史・史跡

2008年06月24日

満濃池 池名の変遷(へんせん)



文武天皇の大宝年間の国司、道守朝臣(みちもりのあそん)によって満濃池が創築されたころから当地が神野郷と呼ばれていたところから神野池(かんのいけ)。五十二代嵯峨天皇が大同四年に即位されると、その「いなみ」の神野にふれることから神野郷は真野郷(まのごう)と改称したので、神野池も真野池なった。平安中期の寛仁四年の「萬農池後碑文(まんのういけのちのひぶみ)」に萬農池(まんのういけ)とあることから当時は萬農池と呼んでいたようである。

その後萬濃池、万能池、十千池(といちのいけ)と当て字を書いたこともあったようであるが、江戸時代の記録には満濃池の池名がよく見られるようになり、明治一二年満濃池士工会が「満濃池」に統一し「満濃池(まんのういけ)」が公式名称となった。  


Posted by まんのう池コイネット at 13:04Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年06月23日

満濃池の創築


上 萬農池後碑文


当地讃岐は大陸や朝鮮半島の文化の影響を受けて早くから開拓され、とくに大和と吉備の二つの文化圏に近い丸亀平野は稲作の重要拠点の一つであった。八世紀になると河道沿いの低地や湧水知に小さなため池が築かれていたであろうことは想像できる。

満濃池創築は、古文書「讃岐国萬農池後碑文(さぬきくにまんのういけのちのひぶみ)」によると「此の池は大宝年中 国守道守朝臣(みちのもりのあそん)の築く所なり」と書かれている。ただ、この石碑は大宝年間より三百年も後の寛仁四年(1020年)に建立されたもので、その石碑も現存せず、碑文のみが名古屋市中区大須二丁目の真福寺に所蔵されている。


当時大和朝廷は大化の改新を断行し、ようやくその基礎を固め、国司、郡司を直接指揮し、全国に水田の開発に乗り出してたという時代背景から考えて、満濃池の創築が大宝年間(701年~704年)讃岐の国守 道守朝臣によるものとすると今から凡そ1305年前のこととなる。
  


Posted by まんのう池コイネット at 07:00Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年06月15日

満濃池今昔

6月13日のゆる抜きをきっかけにもう一度満濃池について綴っていきたいと思います

古代の満濃池(今昔物語より)

今は昔、讃岐國(注)の郡に、満濃の池とて大きなる池あり。高野の大師の、その國の人をあはれまむが為に、人を催して築き給へる池なり。池の廻りはるかに遠くて、堤高かりければ、さらに池とは思えで海などとぞ見えける。」(注:原本欠字)
『今昔物語』に描かれた古代の満濃池の姿、そこには作者の誇張もみられるであろう。しかし現在でも、水を満々と湛える満濃池を初めて見たときの印象は、そう変わらない。下流域から満濃池を訪れるとき、堤防の横の急な坂道を上りつめると、池とは思えないほどの広大な水面が目の前にひろがる。現代の巨大なダム貯水池を見慣れた目には、もちろん海とは思えないが、それは湖と呼ぶにふさわしい規模である。総貯水量 1,540万t、農業用溜池としては他に類をみない、日本一のスケールを擁している。

写真手前のアーチ型が堤防 空海考案時より原型は継承される
  


Posted by まんのう池コイネット at 09:46Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年05月30日

まんのう 満濃池ゆる抜き近くして思うこと

6月13日(正午)は満濃池のゆる抜きです


満濃池は金倉川沿いの広い谷地と、天真名井の豊かな湧き水を堰き止めて、
大宝年間(701~704)に讃岐の国守、道守朝臣が創築したと満濃池後碑文に記されています。

 其の池も弘仁九年の洪水で決壊し、築池使 路ノ真人浜継が再築に着手するも進まず、
国守の嘆願で嵯峨天皇の命を受け、弘仁十二年空海(弘法大師)が築池別当として派遣され、
再築された話は有名であります。その時空海は池東の高台岩上に、護摩壇を作り工事期間
中護摩を焚き、工事の無事完成を祈ったと伝えられ、その岩山は今も護摩壇岩として残っています。

(現在写真手前の島のように見えるのが空海が護摩を焚いたといわれる「護摩壇岩」ここ最近では嬉しいことに水位が上昇して渡れなくなっています。)

 その池も三十年後の洪水で決壊し、再築。その後三百三十余年は決壊の記録が無く元暦
元年五月一日の洪水で堤防が決壊、鎌倉・戦国と騒乱期の四百五十年間は再築されず、
池の中に人が住み、池内村が出来ていた、と言われています。

 豊臣秀吉が天下統一をなし、太平の世となり徳川家光の時、讃岐城主生駒高俊は寛永五年
、家臣 西嶋八兵衛に満濃池の再築を命じました。八兵衛は現地を踏査し、空海が再築の
際逗留した矢原家に残された、資料を参考に三年計画で再築を設計着工し、

寛永八年二月十五日に竣工しています。その後底樋の伏せ替え六回、櫓の仕替十二回を数えて、
安政元年の大地震による決壊となります。

 その後、多数の先人の尽力により明治三年に復旧した満濃池は、貯水量585万トンでした。
明治三十八年に第一次嵩上げ工事(0,87m)が行われ、貯水量667万トンとなり、昭和五年に
第二次嵩上げ工事(1,5m)が行われ、貯水量780万トンとなり、昭和三十四年竣工の第三次
嵩上げ工事(6m)で、現在の貯水量1,540万トンとなり、潅漑用溜池としては日本一となったのであります。




写真上(昭和30年ころ撮影)モノクロ写真(左下すみ)を見ると配水塔はまだ建設されてなく、導入路の敷設も手付かずの状態
である白く見える石畳が現在の堤防でそれに続く石畳は旧堤防の堤であろう
護摩壇付近は現在と殆ど変わらず当時はより多くの松林に覆われていたようである
神野神社(写真右側)付近は当時あまり樹木が茂っておらず空が透けて見える程度ある

上のモノクロ写真は工事現場写真のようであり左上新堤防ではまだ作業する人影が写っている
この写真を推測するに現在の配水塔より約5m~7m位池中心より旧堤防南末端から撮影
したもののようである

写真下カラー写真は水位約90パーセントくらいの時に配水塔から撮影したもの

こうして眺めると50年の月日が流れていることに気づくとともにこれから50年・100年この変わらぬ風景を守っていく努力を私たちがしなければ・・・と思うのでした。
  


Posted by まんのう池コイネット at 15:25Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年05月27日

まんのう 満濃池石碑めぐり



大正三年に完成した満濃池のレンガ造りの配水塔の竣工を記念して建立したもので、台座の赤煉瓦は当時、配水塔の外壁に使用したもので築いている。


上の写真は現在の配水塔が出来る昭和30年ころまで使われていた「赤煉瓦(アカレンガ)の配水塔」
配水塔の外壁を築いていた赤レンガで石碑の土台を作っています

 満濃池の底樋は明治三年に、池底西側の岩山にトンネルを掘ってこれに代えたが、前部の継ぎ足し部分と竪樋、取水櫓は従来の木造のままであった。そのため明治三十一年には早くも腐食し、仕替え工事を行っている。
 ところがその後二十年も経たずしてまたもや腐食したため、当時の最新工法を取り入れてレンガ積みの配水塔に鉄管を布設し、取水バルブ方式に改めたのである。この配水塔は第三次嵩上げ工事で、現在の配水塔が建設されるまで使用されたが、赤レンガの配水塔と呼ばれて注目された。
石碑の場所は神野寺参道に繋がる配水塔へ向う途中の右側山手にある。
 碑には 満濃池配水塔  大正三年九月 十三日起工
             同年 十二月二十三日完工
             全高   六十三フイト
             内径     七フイト
             外径上部  十五フイト
             外径下部 二十四フイト
             吸入鉄管   七個
             総工費 金一万八千円



  


Posted by まんのう池コイネット at 09:27Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年05月24日

渡し舟をこぐ

 かりん会館で「ゆるぬき」にあわせた写真展を企画したところ、お宝写真が寄贈されました。終戦頃まであった、岡地区の渡し舟、これには、いろいろ物語があるのですが、めずらしく、郵便さんが自転車を積んで舟をこいでいるところです。実に貴重な資料です。             この郵便の旗をたててこいでゆくところがなんともいえないでしょう?       


Posted by まんのう池コイネット at 00:31Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年05月22日

まんのう 満濃池石碑めぐり 真野池碑


幕末に決壊した満濃池は明治三年に再築されたが、

これを記念して建立された石碑である。碑文の内容は、

前文で平安時代初期における空海の満濃池再築に触れ、

さらに江戸時代初期における丸亀藩主、生駒高俊と

家臣西嶋ハ兵衛による再築を称えている。

 続いて安政元年の堤防決壊とそれに伴う被害の

有様を述べ、後半ではこの復旧に関わった高松藩主松平頼総と、

復旧に奔走し底樋の石穴方式を推進した、執政松崎渋右衛門の

功績を称えている。

 石碑は矢原正敬の撰文、題額は正敬の染筆、碑文の染筆と碑の

建立は正敬の子息正照である。

真野池石碑の場所はこちら↓
  


Posted by まんのう池コイネット at 17:05Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年05月19日

満濃池人物伝 長谷川喜平次・佐太郎

長谷川 喜平次
 満濃池の底樋は当時木製で二、三十年に一回は伏替を余儀なくされていた。
この普請は農家にとっては大きな負担であった。これを軽減しようと考えたの
が那珂郡榎井村の里正(庄屋)長谷川喜平次であった。

 嘉永二年(1849)農民の苦労と不経済さを勘案して半永久的に伏替を必要と
しない石造りにしてはと考え、高松、丸亀藩両藩の了解を得て庵治石で底樋を
作ったのである。これに必要な莫大な工費には、喜平次自身も数千両の私財を
投じたと言われている・其のお蔭で工事は嘉永二年八月に着工、翌年四月には
底樋の前半部を石製に改修、喜平次はこの完成に自信を持ち、嘉永五年八月後
半部工事に着工、翌六年四月には全工事が完成した。

 ところが巨大な池だけに水圧が大きく、嘉永七年七月六日朝、石造底樋より
水が浸潤しているのを池守が見つけ、高松 丸亀藩から担当者が出て農民も総
出で応急工事に当たったが漏水が止まらず、事態は最悪となり、九日ついに決
壊する。

 高松藩記によると 六月十四日地震、七月九日満濃池決壊 とある。のでこ
の決壊は地震によるものであったのかもしれないが、当時すでに田植えも終わ
っており、貯水は10パーセント程度しか残っていなかったがこの水で池下の村
の田畑は流され死傷者が続出し、金蔵川は溢れ返り琴平で冠水60センチとの
記録が残っている。


 最も悲嘆に暮れたのは底樋石造を総指揮した庄屋の喜平次であった。   
喜平次は名を信直、字を帰中と言い、通称倉敷屋喜平次と呼び、俳句にも才
を発揮し雨艇と号した粋人あったという。

 その後十数年、この地一帯は池なし村となりこの時代不思議と旱魃と洪水が
繰り返され、その受難の最中、喜平次は失意のまま文久二年(1862)六十七才の
生涯を閉じた。

 喜平次の死後、何十回にも及ぶ協議の末、明治になってからやっと再築が
実現する。

 その遺志を受け継いだのは、同村の豪農長谷川佐太郎であった。


長谷川翁功徳之碑



満濃池堤防東詰めに一際大きく立派な石碑が聳え建っています。

 この碑は長谷川佐太郎の功績を讃え、明治の元勲山縣有朋が題字、子爵品川
彌二郎の撰文、衣笠豪谷の書により、明治二十九年十一月、朝廷より翁の功を賞し、藍綬褒章及び金五十円を賜るを機に建立したもであります。
碑文には、こころざしを道とし、よりどころを徳とし、人の道理を基本に、遊びを芸とすることは、おそらく長谷川翁のいうところである。・・より始まり翁の功績が事細かく列記され、最後に、世間の評判や立身出世を待たなかった翁は、生まれつきの徳に由来する大宗師といえよう。と記している。
安政元年決壊した満濃池は、水掛りが、高松、丸亀、多度津の三藩にまたがり、天領も含まれていて、復旧には各藩と倉敷代官所の合意が必要で、意見の一致が得られないまま十六年放置されていた。
長谷川佐太郎は、この間、満濃池の復旧をうったえて奔走するも、目的は果たせず幕府は崩壊する。彼は好機到来とばかり、勤皇の同志を頼って上京し、新政府に百姓の苦難を切々と訴え、早期復旧の嘆願書を提出し、明治二年着工同三年に竣工した。この間彼は一万二千両に及ぶ私財を投入し、晩年には家屋敷も失い清貧に甘んじている。

長谷川佐太郎石碑場所は

  


Posted by まんのう池コイネット at 14:18Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年04月15日

まんのうの古(いにしえ)が解る!?

最近、デブってる私、ここ数日、早朝から満濃池のほとりをウォーキングしてます。先般、護岸補修に併せて整備された遊歩道をかりん亭の前から五毛地区へ歩いていくと、途中、右手に下の写真の看板が現れます。





読んでみますと、「満濃池 神野古墳群」。ほぉ~、昨年の春、発掘したところ、満濃池内から「石の棺」(跡)が出てきたとのことです。6世紀末~7世紀の頃の子どもさんのお墓だそうな。説明看板上ではイラストにて紹介、その上、看板のヨコには その石棺も移築保存されています。








満濃池の開発/整備の手法については賛否両論あるでしょうが、安心・安全に歩ける遊歩道が完成しています。ぜひ、ジョギング、ウォーキングにお試しあれ!






  


Posted by まんのう池コイネット at 14:57Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年04月02日

空海と矢原家の関係の象徴



空海の像の下方に矢原家の文字があります。



矢原屋敷跡は、かつて空海が満濃池を修築した際に寝泊りした場所で、
大きな歴史を感じる場所ですね。  


Posted by まんのう池コイネット at 11:45Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年03月29日

満濃池の楽しみ方

 
満濃池といえば空海、弘法大師という名前が思い浮かぶ人も多いでしょうが、まだまだ、たくさん功労者がいるんですね。道守朝臣(みちもりのあそん)・・・?  小学4年生の社会で西島八衛兵の名も! 石碑や看板からも発見がありますよ。  


Posted by まんのう池コイネット at 16:09Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年03月07日

空海が池修築の安全を祈願した護摩壇岩


満濃池は弘仁九年の洪水で決壊し、築池使 路ノ真人浜継が再築に着手するも一向に進まず、国守の嘆願で嵯峨天皇の命を受け、弘仁十二年空海(弘法大師)が築池別当として派遣され、再築された話は有名ですが、その時空海は池東の堤防が見渡せる高台岩上に、護摩壇を作り工事期間中護摩を焚き、工事の無事完成を祈ったと伝えられ、その岩山は今も護摩壇岩として残っています。写真は堤防東(現在)から中央の松林の中にある護摩壇岩そして遠くに見えるのが配水塔です。



空海再築の昔から大正時代までは(池が決壊し池内に村が出来た時期を除いて)、満濃池はこの護摩壇岩下が堤防の東詰めであり、そこから西側までの堤防が昭和の嵩上げまでは使われていたようです。

今ちょうど水位が下がり昭和初期まで使われていた旧堤防が顔を覗かせていました。歴史の中で幾度も形を変えてきた満濃池ですが現在の姿は西嶋ハ兵衛の築造した池が原形であると言えるのではないかと思われます。
↓写真は昭和(撮影年月日不明)の嵩上げ頃の対岸付近から写した護摩壇(中央の茂み・このころは樹木も沢山あったようです)と現在の堤防嵩上げ工事の進捗具合をとったもののようです。
  


Posted by まんのう池コイネット at 09:37Comments(0)満濃池の歴史・史跡

2008年03月02日

身近な「空海」を探せ !?

この「コイネットblog」をはじめ、満濃池に関わるwebページで頻繁に登場する、我が町ゆかりの偉人・スーパーヒーローと云えば、もちろん 弘法大師:空海さんです。あやかりたいと思いつつも、あまりにも雲の上の御人過ぎて近寄れない … この私のフザけた与太話に引用などすればバチが当たる!常々そう感じておりましたが、昨日、まんのう町役場のカウンターのヨコを通った時、お茶目なポケットティッシュを見つけました。だいぶ前のモノだとは思いますが、悪質商法の被害に遭わぬように、と予防キャンペーン宣材なのでしょう。





ティッシュの片側には、上のようなカードが入ってました。ナニナニ … 「その手はくうかい!」…って、めちゃベタですがな。でも畏れ多い御大師さま が 庶民目線にまで降りてきて下さったようでなんやら嬉しい気もしました。

弘法大師のようなスーパーヒーローは何百年に一人しか出現しないのでしょうが、我が家やご近所のプチヒーローは、この町内にいっぱい居るはずです。建物や物といったハード系の観光資源ではなく、あまりにも身近で気付かなかったけど、改めて考えたら けっこう凄いじゃん!って、そんな方々:ヒトにスポットライトを当ていくのも、このコイネットのミッションかもしれませんネ。

あなたの近くに、「云われてみれば凄いヒト」、居ませんかぁ?  


Posted by まんのう池コイネット at 00:18Comments(0)満濃池の歴史・史跡